LOGIN翌朝、高瀬メディカルから正式な回答書が届いた。
怜司は執務室で封を切り、最初の一文を読んだところで指を止めた。
黒崎側が提示した検査記録は、高瀬メディカルが保管する正式記録と一致しない。
現在、外部機関を含む関連記録を確認しており、客観的な証明が揃い次第、追加資料を提出する――。
怜司は同じ箇所をもう一度読んだ。
否定だけではない。
高瀬は、証明すると言っている。
「どう見ますか」
向かいに立つ雅人が尋ねた。
怜司は書面から目を上げなかった。
「まだ判断できない」
「時間を稼いでいる可能性もあります」
雅人の声は慎重だった。
「高瀬内部に残る記録だけなら、後から整えたと主張することもできます。こちらとしては、予定どおり調査を続けるべきでしょう」
「それは当然だ」
高瀬が否定したからといって、部品供給をすぐ再開するわけにはいかない。
もし本当に安全試験に不正があ
翌朝、高瀬メディカルから正式な回答書が届いた。怜司は執務室で封を切り、最初の一文を読んだところで指を止めた。黒崎側が提示した検査記録は、高瀬メディカルが保管する正式記録と一致しない。現在、外部機関を含む関連記録を確認しており、客観的な証明が揃い次第、追加資料を提出する――。怜司は同じ箇所をもう一度読んだ。否定だけではない。高瀬は、証明すると言っている。「どう見ますか」向かいに立つ雅人が尋ねた。怜司は書面から目を上げなかった。「まだ判断できない」「時間を稼いでいる可能性もあります」雅人の声は慎重だった。「高瀬内部に残る記録だけなら、後から整えたと主張することもできます。こちらとしては、予定どおり調査を続けるべきでしょう」「それは当然だ」高瀬が否定したからといって、部品供給をすぐ再開するわけにはいかない。もし本当に安全試験に不正があれば、危険にさらされるのは製品を使う患者だ。疑義が解消されるまでは止める。その判断を下したのは自分だった。だからこそ、最後まで確かめる責任がある。「高瀬会長は、俺との面会を求めているのか」雅人の視線がわずかに動いた。「……はい。何度か」怜司は顔を上げた。「何度か?」「品質保証本部を通じて、直接説明したいとの申し入れがあります」初めて聞く話だった。「なぜ俺に上げなかった」「社長が直接会われれば、調査の公正性を疑われる可能性があります」雅人は淡々と答えた。「離婚直後という事情もあります。高瀬側と個人的な関係があったことは、社内でも知られていますから」「だから説明まで聞くなと?」「少なくとも、品質保証本部で事実関係を整理してからのほうがよろしいかと判断しました」怜司はしばらく雅人を見た。理屈は分かる。
翌日、高瀬メディカルの検査室から届いた資料が、応接室の机いっぱいに広げられた。沙耶の向かいには、佐伯と相川が座っている。宗一郎は朝から取引先と大学病院への説明に回っていた。本来なら、自分も会社へ行きたかった。けれど医師からは、まだ外出を控えるよう言われている。皆が高瀬を守るために動いているのに、自分だけが家で待っている。そのことが、沙耶にはもどかしかった。「検査機器に残っていた元データは、すべて保全できました」佐伯が厚いファイルを開いた。「社内サーバーの記録も複製して、別の場所へ保存しています。正式記録そのものに、削除や書き換えの痕跡はありません」「……よかった」思わず声が漏れた。まだ安心するには早い。それでも、高瀬が不正をしていないと証明できる記録が残っていた。それだけで、張りつめていた胸がわずかに緩んだ。沙耶は、黒崎側から示された検査表と、高瀬に残る正式な記録を並べた。書式はよく似ている。機体番号も、担当者の名前も一致していた。けれど、試験日時と測定結果が違う。「この時間に、耐久試験は行われていないのですね」「はい」佐伯は黒崎側の資料に記された時刻を指した。「こちらでは、午後二時十二分から試験を開始したことになっています」続いて、高瀬側の記録へ指を移す。「ですが、その時間は検査機器の定期点検中でした」「点検中なら、試験には使えない?」「電源が入っていても、測定はできません。外部の保守会社が精度確認をしていました」つまり、その時間に正式な耐久試験を行うことはできない。沙耶は偽られた検査表を見つめた。怜司も、これを見たのだろう。一見すれば、本物にしか見えない。人の命に関わる製品なのだから、安全性に疑いがあれば止める。その判断そのものは理解できた。理解できるからこそ、胸が痛む。なぜ、一度でも高瀬へ確かめてくれなかったのだろう。なぜ、自分たちの説明を聞く前に停止を承認したのだろう。「点検した記録は、外部にも残っていますか」「保守会社のサーバーにあります」沙耶は顔を上げた。「証明書を出してもらえますか」「すでに依頼しています。ただ、正式な書類になると数日はかかるそうです」数日。今の高瀬には、その数日さえ長い。検査不正の疑いが広がれば、大学病院だけでは済まない。ほかの医療機関から説明を
翌朝、相川が高瀬メディカル本社から持ち帰った封筒には、黒崎グループ品質保証本部の名が記されていた。沙耶は自室のソファに腰を下ろしたまま、宗一郎と佐伯が見守る前で封を切った。書面の件名を見た瞬間、指が止まる。共同開発品における検査記録改ざんの疑義について。「……改ざん?」これまで黒崎側から示されていたのは、高瀬が提出した検証資料に確認を要する点があり、安全性が確認できるまで部品供給を停止するという説明だけだった。検査記録そのものが改ざんされた可能性がある。そこまで具体的な疑いを突きつけられたのは、初めてだった。沙耶は続きを追う。試作機の耐久試験結果に不自然な数値があること。一部工程について、実施を確認できないにもかかわらず完了扱いとなっていること。そのため安全性の確認が取れるまで、関連部品の供給および追加研究費の支出を継続して停止すること。そして末尾の決裁欄には、黒崎怜司の名があった。「怜司さんが、承認したのですね」宗一郎の表情が険しくなる。「少なくとも、正式な決裁を経た措置なのは間違いあるまい」沙耶はしばらく、その名を見つめた。人命に関わる疑いがあるなら、確認が取れるまで止める。その判断自体は理解できる。理解できるからこそ、胸が痛んだ。怜司は、この資料を見た。そして高瀬を止めることを選んだ。「問題とされている記録を見せてください」佐伯が別紙を差し出した。沙耶は一枚ずつ目を通す。耐久試験の数値。実施日時。担当者名。承認欄。見慣れた高瀬の書式だった。社名を隠して見せられれば、社内文書だと疑わなかったかもしれない。だが佐伯は、数秒見ただけで眉を寄せた。「これは違います」「何がですか」「まず日付です。この試作機の耐久試験をしたのは、こ
高瀬メディカルへの部品供給を停止してから、数日が過ぎていた。黒崎グループ本社の執務室で、怜司は机の上に置かれた報告書をもう一度開いた。高瀬が作成したとされる検証記録。耐久試験の数値に不自然な食い違いがあり、一部には実施された形跡の確認できない工程まで記載されている。人の身体を支える医療機器だ。疑いがある以上、確認が終わるまで開発を進めるわけにはいかない。そう判断したのは怜司自身だった。部品供給と追加研究費を一時的に止める。ただし、高瀬を不正企業と決めつけるな。事実確認を急げ。数日前、怜司はそう命じて決裁した。その判断そのものを、今も間違いだったとは思っていない。問題は、その先だった。「まだ調査結果が出ないのか」向かいに立つ雅人へ尋ねると、彼はわずかに表情を曇らせた。「確認に時間がかかっております」「何にだ」「元になった記録と、関連部署のデータ照合です。高瀬側にも確認を求めていますが――」怜司は顔を上げた。「高瀬から返答は?」一瞬。ほんのわずかだったが、雅人の言葉が途切れた。「担当役員のところには、いくつか問い合わせが来ているようです」「問い合わせ?」「停止理由の詳細を示してほしい、と」怜司の眉が寄った。「それだけか」「と申しますと?」「高瀬会長が、何も言ってこないのは不自然だ」高瀬宗一郎を、怜司は長く知っている。自社に不正の疑いをかけられ、部品も資金も止められて、それで担当者同士のやり取りだけで済ませる男ではない。まして、身に覚えがないのならなおさらだ。「直接、俺と話したいとは言っていないのか」雅人は慎重に答えた。「先方も社内確認を進めている段階かと。情報が錯綜したまま社長同士で話しても、かえって混乱を招きます」
一ノ瀬雅人《いちのせ・まさと》は、黒崎グループ本社の役員室で報告書を閉じた。高瀬メディカルへの部品供給は止まっている。追加研究支援も保留された。安全性に疑義があるという報告を受け、最終的に停止を承認したのは怜司自身だ。患者の身体に直接関わる製品である以上、確認が取れるまでは動かさない。怜司なら、そう判断する。私情を挟まず、安全を優先する。だからこそ、雅人には利用しやすかった。「高瀬会長からの連絡は?」向かいに立つ管理担当者へ尋ねる。役員間の連絡経路を扱う男で、以前から雅人の頼みを断らない人間だった。「今日も社長との直接面談を求めています。問題とされた資料について、高瀬側から説明したいと」「社長には?」「まだ上げておりません」雅人は表情を変えなかった。「それでいい。担当部門で確認中だと返しておけ」「ですが、社長からは高瀬側の反論もすべて上げるようにと――」「上げないとは言っていない」雅人は静かに遮った。「整理してから上げる。それだけだ」一日遅れれば、判断も一日遅れる。数日あれば、高瀬はさらに苦しくなる。評価試験は止まり、代替部品を探しても、黒崎製のセンサーと小型モーターを前提にした制御系を簡単には置き換えられない。「高瀬から届いた資料も、いったんこちらへ回せ」「承知しました」男が退出すると、雅人は窓の外へ目を向けた。一ノ瀬エレクトロニクスも、かつては一ノ瀬家の会社だった。センサー。制御基板。精密モーター。会社も、社員も、技術も残った。だが、経営権だけは黒崎へ移った。今の雅人は黒崎本社の執行役員兼電子部品事業部長として、一ノ瀬エレクトロニクスを含む子会社を統括している。出世したと言う者もいる。雅人には、そうは思えなかった。
高瀬メディカルへの部品供給と、追加研究支援の一時停止を決裁してから、まだ一日も経っていなかった。黒崎怜司は執務机の上に残された報告書を、もう一度開いた。安全性確認資料の一部に不整合がある。検証条件と実測値が一致せず、正式な検査が行われたのか疑義が残る――。患者が実際に装着する義足へつながる開発だ。安全性に疑いがある状態で供給を続けることはできない。だから、止めた。最終決裁欄へ署名したのは怜司自身だった。その責任まで、報告を上げてきた人間へ押しつけるつもりはない。ただ、資料を読み返すほど、一つの違和感が残った。書かれているのは、あくまで「疑義」だ。それなのに報告全体は、読む者を自然に「高瀬が何かを隠した」という結論へ導くように作られている。怜司は内線へ手を伸ばした。「一ノ瀬を呼べ」ほどなくして、一ノ瀬雅人《いちのせ・まさと》が執務室へ入ってきた。「お呼びでしょうか」「昨日の停止決裁について確認する」怜司は報告書を机の中央へ置いた。「この資料は誰が取りまとめた」「電子部品事業部と品質保証部です。共同開発側から上がった資料も照合しています」「元データは?」雅人が、わずかに間を置く。「現在、確認を進めています」怜司の眉が動いた。「まだ確認できていないのか」「安全性に関わる問題です。完全な裏付けを待ってからでは遅いと判断しました」「停止したことを責めているんじゃない」怜司は低く言った。「決裁したのは俺だ。責任も俺が負う」雅人は黙った。「だが、停止することと、不正を断定することは別だ」「現状では、高瀬側の記録に問題がある可能性は高いかと」「可能性は事実じゃない」怜司は報告書の一頁を指で押さえた。「この数値が正式な検査結果なら、原データがあるはずだ。検査機